本物とリアリティー―『トゥルーマンショー』
あらすじ
トゥルーマンはシーヘブンという離島で保険会社に勤める青年だ。ある日、彼の前に死んだはずの父親が現れる。父親は彼の見ている前で何者かに連れ去られる。これをきっかけに、彼は何者かが自分のことを騙そうとしているのではないかと考え始める。彼は、ある日学生時代に出会った女性が忘れられず、島を出てフィジーに行きたいと考えていた。しかし、相次ぐトラブルにより島から出ることができない。実は、トゥルーマンが暮らす島は巨大なドームで覆われたテレビ番組のためのセットであり、彼は生まれた時から人生のすべてをテレビ番組として撮影され、全世界に放送されていたのだ。出来事への違和感をきっかけに自分が暮らす場所が作り物であることに気づいたトゥルーマンは、島からの脱出を決意する。
本物を求める人々
この作品を考えるうえで重要なことは、リアルであることと本物であること(本当であること)を区別することだ。リアルであることは、私たちが生きるような現実をそのまま映し出すように見えること、作り物らしくないことである。その意味で、リアリティとは作られるもの、演出されるものである。『トゥルーマンショー』においては、二つの方向でリアリティが作られている。一つは番組の出演者であるトゥルーマンに対して、街並みや人々のふるまいを自然に見せることである。もう一つは視聴者に対して、現実に近いような暮らしやふるまいを見せることである。
これに対して、テレビ番組の中で本物であることは、ある人の暮しや人生をそのまま映し出すことである。作中で「トゥルーマンショー」が作られたのは、演技によって作られるドラマで描かれるものではない、本物の人生が求められているからだと説明されている。リアリティは作ることが出来るが、本物の人生を番組として放送する(コンテンツ化する)ためには、普段はテレビに出ないような人々をテレビに出したり、普段はテレビに映らないような私生活をテレビに映すほかない。「トゥルーマンショー」では、この本物性を担保するためにトゥルーマンが何も知らされずにテレビに映し出されている。
『トゥルーマンショー』では、製作者が演技ではない本物の人生を見たいという欲求に合わせて作られたと説明されている。上記の区別に従えば、視聴者が求めるのはリアルであることよりも本物であることだ。何よりも、「トゥルーマンショー」の主人公がトゥルーマンという名前であることから、この番組が本物を志向していることがわかる。
人生の虚構化
しかし、番組内で唯一本物であるはずのトゥルーマンの人生は限りなく虚構に近いものになっている。トゥルーマンショーでは、番組にリアリティを与えるため、そして演者にリアリティを与えるために人生そのものが演出や編集の対象になっている。視聴者に対しては、現代的な生活のステレオタイプを用いることでリアリティを担保している。トゥルーマンに対しては、リアリティとは番組の存在を隠しとおす(トゥルーマンが自然だと判断する範囲での)自然なふるまいである。現代(といってもその中での特定の生活様式)に則るためにこれらは大部分において重なっている。本物の人生を描くと言っても、舞台や設定は本物であることとは関係ない。実際、トゥルーマンの人生は筋書き通りに定められている。それは就職し、結婚し、家庭を築くというステレオタイプ的な幸福の物語であり、人生で出会う人があらかじめ決められており、制作側の狙い通りに関係が作られていく。
リアリティの次元以外でも、番組自体の演出や物語性をもたせるために演者は犠牲になっている。視聴者は、本物の人生を見たいと思う一方で、退屈な人生を見たくないと思っている。そのために筋書きや演出が必要とされる。『トゥルーマンショー』で視聴者は番組に対して深く感情移入するような人々として描かれている。たとえばトゥルーマンが父親と再開するシーンを見て視聴者が盛り上がる様子が描かれているが、このシーンは制作側の筋書き通りにお膳立てされたシーンである。番組「トゥルーマンショー」が本物の人生を映すことを志向していても、それは作られたものである。
リアリティの外に出る
トゥルーマンが映画のラストでセットの外に出ることは、二つの意味を持つように思われる。一つは、番組によって作られたリアリティの外側に出ることである。番組のリアリティはトゥルーマンだけではなく視聴者にも作用している。そのため、トゥルーマンがセットの外に出ることは、普段テレビを見る私たちにもテレビ番組が見せるリアリティの外側に出るように促しているように思う。
もう一つは、トゥルーマンが本当の人生を手に入れることである。テレビの中の登場人物としての人生から、本物の人間としての人生へ。トゥルーマンショーはトゥルーマンがシーヘブンの外に出た後、視聴者がチャンネルを変えて他の番組を見ようとするシーンで終わる。脱出したトゥルーマンのその後が描かれないことは、その後のトゥルーマンの人生が物語に回収できないことを意味している。
リアリティショーを映し出す『トゥルーマンショー』
こうしたことは、現実のリアリティ番組にも当てはまるだろう。まず、リアリティは作られるものであるために、リアリティ番組が映し出すのはあくまでも現実の一つの面である。リアリティ番組は普段テレビに出ないような人をテレビに出演させたり、私生活を映し出すことで一種のリアリティを作り出すと同時に、本物の人生の様子を写すことを志向している。ここでも、やはりリアリティと本物であることを区別しなければならないだろう。リアルであることと本物であることが混同されてしまうことにより、演者の生きる現実の次元が見えにくくなる。リアリティは作り出されるものであるが、本物であることは映っているのが生身の人間であることだ。番組で映し出される演者の様子と、演者が生きる現実は全く別のものである。
私たちそれぞれに、それぞれが生きる現実がある。インターネットの登場によって、現代ではそれが実感しやすくなっているのではないだろうか。マスメディアが強固なリアリティを提示できなくなる一方で、リアルな生活の様子を見たいという欲望も強くある。そして同時に本物への志向、作られたもの・演出されたものを良しとしない風潮もあるように思う。このような時代だからこそ、リアルであることと本物であることを区別して考えることが必要なのではないだろうか。
文・中村健太郎