一度読むことから始めてみる—早大生による読書会「積読消化会」インタビュー
大学生になってある程度の自由な時間を持ったからには、本を読みたい。そんな人は読書会に参加してみるといいかもしれない。早大生を中心に活動している、参加しやすい読書会「積読消化会」の主催者、仲谷さんとmokaさんに実際の活動の様子を伺った。
積読消化会の活動
—この会を立ち上げた経緯を教えてください。
仲谷:読書量が絶対的に足りていない部分を補うためです。僕は受験勉強以外の勉強をちゃんとやったことがなかったので、大学に入学してから人文学系の勉強を以前からやっていた人に対してコンプレックスがありました。でも大学二年の終わり頃になっても、人文学系の必読書の多くを読めていなくて。そのような時にmokaさんに初めてお会いして意気投合したんですよね。それで、内輪で相互監視的に本を読む場所を作りたいという話をして去年の4月からこの会を始めました。
moka:僕も以前は本当に本を読まなくて、読もうとは思いながらもあまり本を読まずに二年目の大学生活が終わりかけていました。そこで、自分が全く手を付けたことがないような哲学分野の本を読んだり、自分の専攻を深めたり見直したりするためにも、読書会のようなものを開きたいと思いました。
—積読消化会では具体的にどのような活動をされているのでしょうか。
仲谷:週に一回早稲田周辺の喫茶店に集まって話しています。数十分から一時間くらい課題本について語って、そこからは脱線して他の本や分野の話をする感じです。参加者は少ないときは二、三人で一番多かった時が九人です。一年生から五年生まで幅広い学年の人が参加しています。さらにはTwitterで見つけてくれて高校生が来てくれたこともありました。
moka:この会では課題本を読んだ人同士で気軽に集まって話すことを重視しています。それ以外にも、その作者に関連する学問分野や、その学問分野の良著の話もしていて、本の情報交換の場として成り立っている部分もあります。帰りに近くの本屋や大学の生協に寄って、勧められた本があったら買ってしまうんですよね。
仲谷:積読消化会のはずが、積読増加会になっています(笑)。
—思っていたより緩い雰囲気ですね。
仲谷:基本的には初心者向けの必読書をみんなで読んで、そこから興味に応じて本をお勧めし合ってそれぞれが自分の興味を深めていく場をイメージしています。大学に入って高い学費を払っているのだから、たとえアカデミズムに進まないとしても大学を有効に活用すべきだと思っています。そのためにはきっかけが必要だと思っていて。大学に入ると勉強のやり方に関して突然放り出されるじゃないですか。だから、大学を活用できるようになるための装置として読書会が機能したらいいなと思っています。そこから興味に応じて自分の意志で進んでいくのが理想ですね。
積読消化会で読んだ本
—人文学系の学部の必読書を読んでいると伺いましたが、その中で特に選定基準やテーマはありますか。
仲谷:哲学・海外文学・日本文学の三つのテーマで週ごとに順繰りしています。そのうち哲学の回の本の選定は僕が担当しています。哲学の回は時代順にスタンダードな古典を押さえていっています。例えば初回の課題本はプラトンの『ソクラテスの弁明』でした。そのあとは、アリストテレスやデカルト、カントなどの著作を選びました。通年で現代まで読み進められるように構成していて、後半は興味を持っている人の多かった現代思想の本を重点的に選びました。
moka:小説に関しては文学部と文化構想学部で配られる必読書リストや、先生方がまとめられた必読書リストから選んでいます。その中でも、多くの人が作者の名前や作品名を聞いたことがあっても実際にはあまり読まれないような小説を中心に選択しています。例えば夏目漱石や太宰治、横光利一などの作品です。
—必読書とされる本をこの会で実際に読んでみて、どのような印象を持たれましたか。
仲谷:何を読んでもよかったなと思います。それは時間や時代による選別を乗り越えてきている本だけを選んでいるから、当然なのかもしれません。
moka:長い間再読可能性に耐えてきた本であれば、僕たちが読んでも何かを得られると思うんですよ。それに、ある本を論じようと思っても、読まなければ議論の土俵にすら上がれません。そういう意味でも読む意味は十二分にあったと思っています。
—特に記憶に残っている回はありますか。
仲谷:クリスマスに新約聖書を課題にした回が良かったです。キリスト教の信者の方がいらして、いろいろな解釈があるという話を聞けたりできたんですよね。そのようにたまに詳しい人が来てくださるのが積読消化会のちょっとした醍醐味かもしれません。個人的には、新約聖書そのものが真摯に向き合うと面白い本だという発見もありました。
moka:明治時代に西洋の思想が取り込まれる際に、聖書の内容が当時の文壇にも影響を与えたという話を聞いたことがあったのですが、この会で実際に読んだことで、その点も深く理解できたので良かったです。
仲谷:キリスト教は西洋哲学の土台の一つです。なので、その源泉を読むことで文脈を踏襲した 上で西洋哲学を学ぶことが出来ると思います。そういった視点を得られたという意味でとても貴重な回だったなと思います。
moka:金井美恵子の『岸辺のない海』の回も記憶に残っています。恥ずかしながら、「必読」とよく言われる68年代の作家の小説をあまり読めていなかったんですよね。難解な小説なので、通読できた方はほとんどいませんでした。けれども、一度読んでみることで、聞いていた前評判や周辺の情報に対して納得する部分もあれば疑わしく思う部分もあって、色々と知見を得ることはできました。
—読んだ本の内容をすべて理解されているわけではないのですね。
仲谷:いくらでも難しい本はありますし、極論ですが分かっているつもりでも一冊たりとも理解してない可能性すらあります。積読消化会では最初に読むきっかけを用意しているだけなので、テクストを理解することよりも、分からなくても一度読んでみることを重視しています。
moka:分からなくても読み通すことで輪郭をつかむことが大事だと思っています。輪郭をつかんでおくと大学の講義を受けたり、先生とお話ししたりしていて分からなかったことが不意に何かと結びついて分かるようになる瞬間があるんですよね。いつか分かるようになるための土壌づくりの役割を、積読消化会も果たせているのではないでしょうか。
相互監視から相互扶助へ
— 自分が読みたい本を選び、それを読むという意味で読書はひとりで完結する行為だと思います。なぜ、あえて読書会を開きみんなで集まり議論するのでしょうか。
moka:当初は内輪での相互監視のためだった会に、さまざまな書籍や学問分野に造詣の深い人が集まるようになりました。そして、そのような方々がテクストを読んだ上での感想や考察を話してくださったり、そこに付随するジャンルの本を紹介してくださるようになりました。今はそれを聞きたくてやっているという側面も強くなってきています。
仲谷:僕は読書という行為自体は孤独な行為だと思っているので、読書会は語る場所としてあるだけで読書体験そのものは普段とあまり変わらないと思っています。ただ、読書会で意見を言うことを前提にすると問題意識やトピックを意識しながら読むことになると思います。たとえば内容が分からなくても、どの部分が分からないのかが意識できていれば、読書会でそれについて議論することができるし、暫定的な答えを得ることが出来るかもしれない。そういう意味で、相互監視から相互扶助のための会に変化してきていると思います。
—今年度の活動予定を教えてください。
仲谷:同じ本を課題にするとしても以前来たことがある人も楽しめるように、課題本に関する参考文献を作って、そこに書いてある本を読んできてもらったりして、昨年度読んだ本の周辺を読んでいきたいと思っています。それによって昨年度よりも、同じ本に対して豊かな議論ができると思っています。新入生も歓迎ているので興味があったらぜひ来てほしいと思います。
moka:来年はより開かれた形で、学年や学内外を問わず来てもらって「取りあえず読もう」という姿勢でやっていきたいです。新入生にもぜひ来てほしいです。文学作品は本当にいろいろな読み方ができるんです。たとえば人称に注目して読むこともできますし、各種モチーフの連なりに注目することで別のテクストの姿が現れてくるような読み方もできます。そうした多様な読み方を、お互いに共有していきたいです。
積読消化会は2020/4/10現在、活動を休止しています。活動状況に関する追加の告知については、仲谷さん(@hamlet_mn)とmokaさん(@moka_bunko243)のツイッターをご覧ください。
おすすめの本
moka:私が薦めるのは柄谷行人の『日本近代文学の起源』です。私が専攻しているのは日本近代文学に近い領域なのですが、その分野に関係ない人も是非読んでほしいです。1880年代くらいに、西洋の文学や小説が日本に入ってきたときに、小説というメディアだけが変わったのではなくて、それによって我々の認識の仕方も実は変わっているといったことが論じられています。つまり私たちが普段使っている意味での「文学」や、「風景」、「内面」という言葉や、そこから生じる我々の認識の変わり様というものは、実は近代以降から生まれたものだと言うのです。決してそこから抜け出すことはできないだろうけど、せめてそれらの恣意性を認識するために、それがどのようにして生まれたのかという「起源」を辿りなおす本です。
また、「表現」という言葉は「表に現す」と書いて「表現」と書きますよね。何を「表に現す」のかと言えば、それは何かの「意味」とか人々の「内面」といったものになると思います。あらわされる何かが先にあり、「表現」はそれを巧みに写し取り、再現する、それが「文学」的な営為だと、一般的には見做されているのではないでしょうか。しかし、そうした単なる再現の手段としての言葉の在り方からは遠く離れて、言葉はある意味で不透明なところから始まっているのではないかという認識も与えてくれる本だと思います。それは「文学」作品を読む上ですごく大事な視点だと思うので、とりあえず読んでみてほしいです。
仲谷:哲学は原典に当たらなければ話にならないので、興味を持った個別の哲学者の古典を順次読んでいくのが一番いいと思っています。ただ、難しいですが導入としておもしろい本は浅田彰の『構造と力』です。1940年代、50年代の哲学の流れを概観し、60年代のフランス哲学を現代的な意味で再構成するところまでやっています。現代思想のチャート的な本なのである意味で本来の思想から外れていたり大雑把な説明がされているところもありますが、それを差し引いてもおすすめです。
それから、人文学の入口として触れると良いと思ったのが、カッシーラーの『人文学の論理』です。文学部や文化構想学部に、あるいは人文学系の分野に興味を持って入学しても、今は文学部不要論のようなことが言われていますよね。そこに進むということを他者から承認されることで価値づけするのではなく、自分で意味づけや価値づけをしていくことが重要になってくると思います。そういった意味でカッシーラーの『人文学の論理』は良かったです。
取材・文/中村健太郎